その歴史は平安時代まで遡る。
公家町としての繁栄、荒廃、そして復興へ。

京都御苑のある京都盆地は河川氾濫が頻繁に生じる土地であり、ニレ科の落葉広葉樹を中心とした植生(山城原野)が広がっていました。平安時代以降、氾濫原の縮小等を背景に、現在の京都御苑の場所に天皇の住まいである御所、後には御所を中心として公家の屋敷が立ち並ぶ「公家町」が形成されました。日本の権威の中心であるとともに、天皇を取巻く公家の文化が花開いた場所でした。

明治時代になると、公家町は、明治維新・東京遷都により急速に荒廃しました。それを嘆いた明治天皇の発意により、公家町跡を御所の外苑、御苑として整備する「大内保存事業」が始まり、苑路の整備や、京都市民など全国からの献木を含む植樹が行われました。大正初期には大正天皇即位式(大正大礼)に合わせて苑内の大規模な改修が行われ、整然とした広幅員の車馬道、樹間の苑路、四方連山への眺め等といった今日の御苑らしい風景の基礎ができました。その後 150 年の年月をかけて、京都市街地最大規模の樹林地が形成されることとなります。

戦後は国民公園として、市民の散策やスポーツ等の日常的な利用の場となりました。苑内には御所、御所外苑の風景、葵祭や時代祭り等、長い歴史の中で培われた皇室(天皇)との縁が深いものが残っており、来苑者が歴史的な重層性を感じとれる場となっています。

古代~近世

①御所築造以前の京都盆地は、河川氾濫が頻繁に生じる土地であり、ニレ科の落葉広葉樹を中心とした植生(山城原野)が広がっていました。
②794年(延暦 13年)、平安京の内裏が完成。桓武天皇により定められたこの内裏(皇居)は、現在の京都御所から約2km西にありましたが、度重なる内裏の焼失により主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏が置かれました。
③火災で内裏が焼失し、その後は元の位置に内裏が再建されることはなく、1227年(安貞元年)、現在の位置に内裏を創建しました。
④1331年(元弘元年)、光厳天皇が即位し内裏が御所となりました。
⑤1392年(明徳 3年)、南北朝合一により名実ともに内裏が皇居として定まりました。明治に至るまでの約500年もの間天皇の住まいでした。
⑥安土桃山~江戸時代初期には、御所を中心とした公家町が形成されました。 1708年(宝永 5年)、宝永の大火により南側部分の町屋等が焼失。その跡地に公家屋敷が拡張し、公家町の敷地が拡大しました。

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近代

⑦明治天皇の東京遷幸に伴い、周辺の公家も東京に移動。明治維新とともに公家町が急速に荒廃していきました。
⑧1877年(明治 10年)、公家町の荒廃を案じた明治天皇により、京都府に御所保存・旧観維持の御沙汰が下りました。
⑨1883年(明治 16年)、屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、道路工事、樹木植栽等の大内保存事業が完了しました。
⑩1914年(大正3年)、大正天皇即位式(大正大礼)の一環で建礼門大通りの拡幅改良等の改修工事を実施。ほぼ現在の京都御苑の姿が整いました。

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現在

⑪1947年(昭和 22年)、国民公園とすることが閣議決定され、御所の前庭としての景観維持や都市公園的な役割が付与されました。
⑫1949年(昭和 24年)、京都御苑が国民公園として一般公開され多くの人で賑わいます。1951年にはテニスコート、児童公園等が整備されました。
⑬1971年(昭和 46年)、所管が厚生省から環境庁に変更され、自然とのふれあいを推進することも新たな役割として重視されます。1981年には出水の小川整備が、1986年には母と子の森が整備されました。
⑭2005年(平成 17年)、饗宴場跡に京都迎賓館が完成しました。その後、海外からの多くの来賓を迎えています。

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